About Me
私について
浜松を拠点に活動するピアニスト・作曲家。
ジャンルや形式にとらわれない独自の音楽表現を追求している。
「人には誰しも天から与えられた色がある」という理念のもと、「天色(あまいろ)」という言葉を軸に置き活動を行っている。
自身が代表を務める「天色企画」では、出演者や聴衆それぞれの天色が輝き出すコンサート「天色音楽会」のプロデュースも手がけている。
以下、私のプロフィールと、現在の私になるまでのストーリーをまとめてみました。
興味を持ってくださる方は、ぜひ読んでみてください。
宮下まゆき プロフィール
2000年1月17日、母方の実家である北海道函館市に生まれる。
3歳よりヤマハ音楽教室に通い始め、6歳で鳥本知世枝氏のもとピアノを始める。
11歳までを地元である静岡県浜松市にて過ごし、父の転勤によりアメリカ・テネシー州へ移住。
テネシー大学の教授であったDavid Northington氏の指導のもと、研鑽を積む。
13歳で初のソロリサイタルを開催。以降、アメリカではたくさんの演奏機会に恵まれ、オーケストラとの共演や、アメリカの人気ラジオ「From the Top」、マイアミ国際ピアノフェスティバル、「The Evelyn Miller Young Pianist Series」などに招かれ、演奏・ソロリサイタルを行う。
16歳で日本に帰国後、浜松学芸高等学校 音楽課程に編入し、前田勇佑氏に師事。その後、東京音楽大学ミュージック・リベラルアーツ専攻(ピアノ演奏家コース)に進学し、岡田敦子氏、石井克典氏のもとで研鑽を積む。2022年に同大学を首席で卒業。
これまでに、ミッドウェスト国際ピアノコンクール第1位、クリスチャン・トカチェフスキー国際ピアノコンクール第1位、MostArtsヤングピアニストコンクール第1位、東京音楽大学コンクール第1位などを受賞。
大学を卒業後は大学院には進まず、自身の音楽を追求するため浜松へ拠点を移す。
現在は自身のオリジナル作品の制作・演奏を中心に、ジャンルの枠にとらわれない自由な音楽活動を展開している。
ピアノとの出会い
ピアノを始めたきっかけは、友達に誘われてヤマハ音楽教室に通い始めたことでした。
小さいころから何をやるにも人より遅く、とにもかくにもぼーっとしていた私でしたが、鍵盤を弾いている時だけは生き生きしていたらしく、そんな様子を見た母が「これだ!」と思い、6歳からピアノを習わせてくれました。
ちなみに母は、音楽家ではありませんが音楽が大好きです。
ピアノを始めてから私は徐々に人らしくなっていきました。
ピアノは私をいろんな面で成長させてくれました。
アメリカでの経験
11歳の時に父の転勤でアメリカのテネシー州に移住しました。
アメリカでの5年間は、私を人としても音楽家としても大きく形成するものとなりました。
私が住んでいたテネシー州のメアリービルは美しい田舎の町で、周りに高い建物はほとんどありませんでした。牛や馬がいっぱいいて、家の庭には野ウサギも遊びに来ました。空が広くて鮮やかだったのを覚えています。
幸いにも素敵なアメリカ人の先生に巡り合い、私は先生の愛情をいっぱい受けながらピアノに励みました。
レッスンに行くと毎回息ができないくらいギューッと抱きしめてくれるアメリカンな先生は、特にお客さんへの魅せ方、パフォーマンス面を大事にして教えてくれました。
そんな中、12歳の時、父にピアノをやめさせられそうになりました。
父は音楽のことはまったくわかりませんが、とても厳しい人でした。先生は大学の教授だったので、レッスン代もそれなりに高く、私が練習をさぼったり中途半端な気持ちでピアノをやっていると見た父は、先生に「まゆきは今後趣味でピアノをやることにしたので、先生のレッスンに通うのはやめます」とメールを送ったのです。それを知った私は泣きました。関係のない弟までが私がピアノをやめさせられたと知って一緒に泣いてくれたのを覚えています。この時初めて私は「プロのピアニストになる」と決心したのでした。
それからは、次から次へと先生が与えてくれる曲を練習し、勧められるコンクールを受けまくりました。
幸いなことに、たくさんの演奏機会にも恵まれました。何千人のお客さんの前で演奏したり、オーケストラとピアノコンチェルトを演奏したり…ソロリサイタルの機会も多くありました。コンクールや演奏をとおして、アメリカの様々な地で、いろんな素敵な人と出会いました。
アメリカのお客さんは本当にあたたかくて、私は、ピアノで人に感動を届けることの喜び、人と繋がる尊さを、これでもかというほどたくさん経験したのでした。
クラシックの世界から離れる決断
日本に帰国して高校へ編入後、英語で授業が受けられる専攻があった東京音大に進学しました。
音大はまさにクラシックを深く勉強する場所だったので、私は二人の素晴らしい先生のもと、研鑽に励んでいました。
私はピアノを弾くことが大好きですが、特に何が好きなのかというと、人前で演奏することでした。
お客さんや聴いている人に届けること、それが届く瞬間が私の喜びであり、生きがいでした。
再現芸術であるクラシック音楽において一番大切なことは、作曲家の意図を読み取り、作曲家が何を伝えたかったのかを自身の演奏をとおして届けることだと思います。クラシックには本当に素晴らしい曲がたくさんあって、クラシック音楽の持つあの神聖な世界は言葉では表せないくらい好きです。でも、私にとってのクラシック音楽は、自分を表現するツールのようなものでした。本当に私がピアノをとおして表現したいものは別にあって、そのためにクラシックの素晴らしい曲たちを借りているようなかんじでした。そんな私の演奏は、「作曲家より前に自分が出てしまっている」と言われたこともありました。
しかし、クラシックの世界こそが最も価値のあるものだと信じていた私は、クラシック音楽そのものに強い関心を持てない自分に対し、それはいけないこと、よくないことだと思って、その気持ちに蓋をしていました。でも、3年、4年と進学していくにつれ、その違和感は深まっていきました。卒業後の進路を決めなければいけない時が来て、私は本当に悩みました。海外の院に留学してもっとクラシック音楽を極める…それが正しい道のはずで、そのために準備を進めていきますが、なんだかどうしてもピンとこないのです。
一体私は何がしたいんだろう。どうすればいいんだろう…悩んだ結果、私は自分の直感に従いました。
院への進学はやめ、地元浜松に戻ってきたのです。自分なりの表現の方法を探すために。
その後も私をクラシックの道へ戻そうとする出来事はありましたが、やはり戻ることはありませんでした。
クラシック音楽を手放す…それは、人生そのものを手放すような感覚でした。よっぽど執着していたのだと思います。
すべてを手放すことで、何もなくなった私。
でも私は、そんな何もない自分こそが尊いということに気づきました。何もないけど、私ははじめからすべて持っていたんだ。
これはもちろん私に限らず誰にでもいえることだと思います。全部は自分の中にすでにある。
作曲をはじめたきっかけ
小さいときから変な歌を作ったりするのが好きでした。浜松に戻ってきて、働いていた時も、変な歌を作っていました。
でも、本格的な作曲となると話は別です。自分は演奏専門だ、作曲の才能はない、と作曲はあきらめていました。
しかし、とあることがきっかけで、2024年の夏、私は初めて本気で曲を作りました。
当時一緒にツアーをした和太鼓奏者の方が、音楽の知識がほぼないにも関わらず、曲を作って披露している姿を目の当たりにした私は、
専門的な知識がなくても曲を作ることはできるのだと一歩踏み出す勇気をいただいたのでした。
その曲をツアーで演奏した際、たくさんの人に届いてほめていただけたのが自信につながり、そこから作曲をするようになりました。
そこからの出来事は、詳しくは書きませんが、奇跡のようで、まるで神様が背中を押してくれているようでした。
勉強が嫌いな私は、基本的には知識ではなく感覚で曲を作っています。
いい流れに乗れている時は、自分でも驚くほど自然に曲が生まれてくることがあります。
大学を卒業してから作曲を始めたのは遅いようにも感じますが、きっと私にとっては完璧なタイミングだったのだと思います。
大学卒業まで、クラシック音楽という素晴らしい音楽をとおしてピアノの演奏を極めてきた時間も、私の人生に必要な時間だったのだと思います。
今後のビジョン
10歳の時、学校で2分の1成人式というものがあり、自分の将来の夢を画用紙に大きく書きました。そこに書いたのは「歌やピアノで世界中に幸せを届けられるようなアーティスト」でした。歌に関しては自分で歌うことはあきらめていますが(笑)、基本的にこの時書いたことがすべてかなと思います。
大好きなピアノの演奏を続けていくこと。自分で作った曲を届けていくこと。
私に与えられた使命というものを全うできたらと思います。
そしていつか、世界中のみんながそれぞれの色・個性を輝かせながら生きることができる世の中になったらいいなと思っています。
未来はどんな仕組みになっているかわかりませんが、それが実現できる会社のようなものを作れたらと夢見ています。
私は、一人ひとりとの出会いを大切にしながらも、多くの人に影響を与えられる存在でありたいと思います。
それが私にとっての幸せです。
とはいってもあまり深く考えることは苦手なので、あとは自然に任せていきたいと思います。
音楽を楽しみながら、人生を楽しみながら、少しずつ最高の自分に近づいていけたらいいです。
最後までお読みくださり、ありがとうございました♪